正月休みにブラッドベリ氏の「I sing the body electric」を読んでみました。
「歌おう!感電するほどの喜びを」ですね。
短編でよく出来ているとは思いますが・・・
内容的に合致するところは無かったです。ヒューマノイドが出てくること以外は。
The Body Electric の詩はRed Berchetta のような内容追随型ではないのは確かだと思います。
踏み込むとタイトルだけがプロット化してて・・・
お読みになる方もいらっしゃると思いますので、細かい中身は省きますが、
いいヒューマノイドが描かれています。と言うよりも「善い存在」として描かれています。全てを受け入れるという観点で・・・
(人間らしさを探求する人造人間が擬人的に描かれているのではないという点で、今まで触れたSFに比べ、この小説はかなり異質でした。)
A.I やら I robot、はたまたブレードランナーのレプリカント等等、
人間の何がしを人造物を通して語らせるというのは手法としてオーソドックスであるわけです。しかし、この作品を読んで思ったことは「完全な善」だとか「完全な愛」といった概念自体、人がこさえたシロモノであるわけで、あり得ない前提があるからこそ命題としてのみ存在しうるのではないだろうかという妙なモノでした。つまり、訝しい印象を持ったのです。
(もっと深遠なモノが隠れているのかもしれませんが・・・)
ニール師匠の本詩でのイメージがPVにあるように「らしさ」の目覚めだとしたら、実は小説と全く反対のことを伝えたかったのではないだろうかと感じています。全てを受け入れることのできるキャパシティが仮に存在したとして、それに則して生きることに意味はあるのだろうか、という疑問がそこにあるように思えます。
原題から 「 I sing 」を引き剥がしていることからもそれを感じます。
つまり賛美していないのではないか(小説が著すアンドロイドの完全愛を・・・もっと言うと賛美したくないのかも)、と。 PVの主人公あるいは、詩に描かれたアンドロイド(アンドロイド的価値に置かれた人間の比喩ともとれます)は、人間的なものを掴もうとして脱走するわけですが、そこには「この世界から脱出したい」という純粋な自己があるだけです。
そして、その方が自然である、困難もあるけれど(容易く容認しようとしない世のあり方も含め)、というのがこの曲のプロットであるように思う。
(Sarieさんも触れていらっしゃいますが2112のテーマも似ていると思います)
しかし、それを善しとして・・・
詩の中のアンドロイドは最後、自身が壊れてしまうような描写で終わっていきますが、loser なのでしょうか?脱出を図り、苦闘の末に息絶えた、というのが私の第一印象ですが、そんな内容をニール氏が書くかなぁという気持ちを拭えないでいます。
実は、相変わらず決着のつかない終わり方で、彼または彼女のその後は判らないままです。息絶えたのではなく、息絶えそうなのです。もしかすると・・・という一縷の望みが残っているわけです。
(余談)
ハヤカワ文庫・・・読むのは「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」以来だったなぁ。というかこの一冊しかないんすが
2005年01月04日
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