美しいメロディに詠われる詩は研ぎ澄まされた言葉の拮抗からではなく
自然な共鳴を厭わない関係あるいは距離に対する感性の大切さ・・・か。
第1バースはお互い相手をコテンパンにする激しい諍いについて述べられています。
1,2行目(2行目はwho'sを省略)は古文風な現在完了の表現だと思われます。
is come = have come なので
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竜退治にやって来ているのは誰だい?
打ち倒される彼(竜)を見に来ているのは誰だい?
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という感じ。
続く部分ですが
Making arrows out of pointed words
Giant killers, at the call
(この頃からNeil師匠の詩は散文的というか言葉少なげになってきます)
この out of は原材料を示す使い方の方が捉えやすく、
「辛辣な言葉で矢を作る(竜を倒すための)」
つまり理論武装(そんなに綺麗なものじゃないでしょうけど)を表現しているのではないでしょうか。
giant killers は慣用表現で「大物食い」のことです。
んー、相撲の金星みたいに下位のものが強者をやっつけてしまうこと、あるいはやっつけることのできる人。
at the call も成句で「要請を受ける(て)」とか、このシチュエーションなら「出番」なんいうのもイイかもしれません。
「大物食いさんの出番だ」、「要請を受けた大物食い」という風ですか。
やり合う前の緊迫した感じですね、ここまでは。やっつけるためにやる気満々な絵です。
続く2行で、そんなこと(上記内容)を今まで繰り返してきて
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辟易するほどの口論やいざこざ
うんざりするほどの反駁や混乱
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があった(there was みたいな表現が頭に隠れていると思います)。
節最後の2行の解釈は難しく、2番を見ないと導き出せない。
というのも、そのまま続けてしまうと、
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謎のベールを剥ぎ取る
そこに真の動機付けの糸口がある
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というやり合うことに意味があるかのような嫌味な言葉(というか矛盾した内容)で締めくくられてしまい救済がなくなってしまうからです。
なぜ2番を見る必要があるのかというと、Neil師匠の場合、聴く側そっちのけで言葉の主体や絵が変わっていることが多いのですが、
節における各行の性格を一致させる配置には拘っているからです。
過日のFreewillもいい例ですが、アンチテーゼの描写と師匠の言葉の位置は節の中で一致しています。
2番の最終2行は、この曲の肝が詠われていて
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Different eyes see different things
Different hearts
Beat on different strings
But there are times
For you and me
When all such things agree
見る目が異なれば、異なるものを見るもの
異なる心が異なるものに操られ鼓動するように
でもあなたと私には時間がある
そういったこと全てに折り合うまでの
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となっています。各々の価値観は異なって見え方も違うけれど、解り合うまでの時間が私達にはあるはずだと綴られています。
とすると、
1番の最後の2行はNeil師匠の言葉に展開していて、
やり合うばかりでなく、それを打開する策というか指針が2行に込められているように思うのですね。
そうすると(1番の解釈に戻りますが)訳は同じでいいのですが、価値観をぶつけ合ってお互いズタズタになるまでやり合うのではなく、
違うこと(自分では理解しがたい相手の言い分=mystery)について考えてみることが建設的な意見交換の糸口になるんじゃないかと、詠っていると感じます。
2番の出だしは
All there really is ですが
これも慣用表現で
「ありのままの全て」・・・私達二人の
と始まります。
ありのままの全てが何なのでしょうか・・・
それは次の we both know why we've come along と絡まっていて
実際には本質の相違(ありのまま)も解っているし、だから一緒にやってきたんじゃないかと綴っている。
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説明することは何も無い
それはある歌の内に見出される私たちの一部分のようなものだから
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と続きます。
暗黙の了解とでも言いますか、言わずもがな
違うことも本来互いに知っているのだからやり合おうとする必要なんかないと
違いをぶつけること自体に意味があるわけじゃない、と。そんな風に聞えます。
最後の部分で葛藤が詠われています。
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What happened to our innocence---
Did it go out of style?
Along with our naivete
No longer a child
私達の純真さに起きたことは
廃れてしまったのかい?
私達の単純さに付き合って
もう子供のようではいられないと
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2行目のit は1行目を指しているように思いますので上のようにしてみました。
out of style で時代遅れという成句で go が付くことによって「時代遅れになっていく」という意味です。
naivete は日本語でもナイーブとカタカナ語化して日常で使われますが、意味としてはあまり宜しくない意味です。
無垢過ぎて弱いとか、知識不足で力が及ばないようなニュアンスです。
ここのところは難しく、RUSHの音楽創作についての謙遜と捉えるのが自然のように感じます。
Pewの方向転換はチャートを意識したと言う意味ではなく独善的な(或いは偏執的な)価値観の打破にあるように思うのですが、
その辺の心境を綴っているように映ります。
2番のサビは先に訳だけ記しましたが、
仕掛があるように思いますので若干解釈を付け加えますと、
Different eyes see different things
Different hearts beat on different strings
前記のように、1行目は嗜好が違えば見ようとする対象も違うことを記しています。
2行目なんですが、Neil師匠の成句文章化だと思います。
on a string で 「意のままに操られて」とか「〜を頼って」という成句です。
ここではdifferent という言葉を挿入して、heartsに対応させて複数にしていると・・・
つまり、各々の心根というものは各々の価値基準によって鼓舞するものである
(heats beat の表現と絡めていて秀逸なのですが)
意訳かつ古典風にさせて頂くと
「胸異なれば高鳴りを求む質も異なる」
という感じでしょうか・・・
いい詩であります。
タイトルが先なのか後なのか知る由もありませんがタイトルの切取り方もカッコイイというかRUSH的で好きです。
2005年06月19日
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Alexヘボ論争の際には、お世話になりましたw
ところで〜私の記憶では、この曲の詞を書いたのはNeilでなくて、Geddyじゃないかなと。オリジナル版ではlyrics by Leeでしたが、リマスタではlyrics by Peartになっていて紛らわしいのですが、北米では「リマスタのクレジットは誤植でDifferent StringsはGeddy」というのが、どうやら共通認識のようです。まあ、本当はどちらかわからないし、どっちでもいいような気もするのですが……
・・・みたいですね。手持ちのレコードもLeeになってますし^^。
実はこの曲を読む前にSarieさんの「Geddy作詞歴失念か?」記事を拝見してまして、Geddyが言ってるならそうだろ、が私の確信犯的な記述の背骨です。ハハ。
あとは、リマスター時に印刷文字データとか打ち直すのかな、そのまま印刷にまわすんじゃないかなぁという疑問。ということは、意識的にクレジット変えてるのではないかと・・・いう想像もしたくなります。
詩の文体への推測は置いておくとして、曲が付く段階で若干の手直しがNeilとGeddyの間であることは想像に難くなく、ある意味いつでも共作的であるのだろうと思います。曲になる時点では・・・